"post-mowota"或は"lost koncom fan"の心情。

1.「卒業」と同時にファンとしての時間が停止するのか?といふと、そんなことはない。これ以上「推す」ことが不可能な状態に置かれてしまつたといふ事實があるだけなのだ。その場合に「何某のファンでした」といふことは「今はファンではない」といふことを意味するものではない。アイドラトリーにおける尊崇の對象とそこに想ひを寄せる者との關系を成立させる場がズレて互ひの活動の共時性が喪はれたといふことはあるにしても、これまで百萬遍も心のなかで繰返して來た「紺野さん」といふ呼び掛けが、ある日を境にプツリと途切れてしまつたりすることはあり得ない。譬ば「21世紀まで愛して*1」と請はれた時に「21世紀になりました。義務を果たしました。ハイ、さやうなら。」とはならないのであつて、ファンの心情といふのはいつまでも不變であるはずなのだ。 …う~ん、私は「戀」について語つてゐるのだらうか? …たぶんさうなのだらう(叫著紺野さん是日々,MKK也)。いづれにせよ、こゝろに深く刻まれたひとたちへの「呼び掛け」といふものが、日々亭まることを知らないといふのは至極當然のことなのだ。

2.「卒業しても相變らずのファン」→「一般人ヲタ(ストーカー)」といふ圖式は短絡的に過ぎる解釋だ。我々は互ひに交友關系を築いてゐたわけではないのであつて、單にイリュージョンにおける共同作業のなかに在つたのであり、その状態が「卒業」後も維持されてゐるからといつて、そのことが即ち札幌や目黒などの具體的な場處と結び付けられてしまつてゐるのは全くの誤解であることを指摘する。重ねていふ、我々は「共同」の状態にあつたのであり、もともと「モノにする/される」といふ卑俗な關系を標榜してゐたわけでは決してないのだ。

*1:これを、例の「應援してください」に讀み換へてもよい。