ドゥルーズの「無人島」を買ひに書店に行つたのだけれど、なぜだか店を出たときには先月出版された「『近代の超克』とは何か(子安宣邦/青土社)」を手にして ゐた。昭和17年に開かれた「近代の超克」といふ坐談會のことは、慥か針生一郎の講義「藝術は可能か?」で識つたのだつたと思ふ。或は夕方からのゼミの方だつたかもしれないし、彼とは別の教授によるコマでだつたかもしれないのだけれども。當時、仕事を拔けて學生を滿喫出來る時間などはコンスタントに設けることが不可能だつたから、一週間の時間割すべてに受講登録をしておいて都合を付けてはそれらを摘み喰ひして ゐたのだつた。勿論これでは纏つた知識などは身に付く筈もなく、種々の學問から出た言葉の斷片でモザイク状に埋まつたノートブックは腦内の混亂ぶりをそのまゝ視覺化して ゐたのではなかつたらうかといふ氣がする。千切れた言葉たちは剥き出しの端子のやうに今でも接續されるべき言葉をもとめて ゐるみたいだ。まあ、どうにも卒業できないといつたところなのかしらね。