はなうた。

きのふ(11/6)「はいぱーこんこん」に書いた記亊ヵラ ↓*1

ハナウタが存在しうる(これは創作の一翼を擔つてゐます)のも、詩のことばが斷片でも機能することの顯はれではないかと想ひます。



さういへば以前(1/14)、ハナウタについてちよつと書いたコトがあつたな... といふコトで、ちよつとピックアップ ↓*2

「♪パッと作つた鼻歌の、曲名きかれたわー(※)
といふばあひ、その曲名は、たうぜん答へられるコトはない。
なぜならば、その曲が、現實に即興で作られたものなのか、知らぬ間に覺え込んでゐた誰かの作つたウタなのか、あるひはそのどちらもが混沌としたものなのか。涌いてくるがまゝに歌つてゐる本人には、わかりやうがないのだヵラ。
(※モーニング娘。涙が止まらない放課後」より... )

もしも「うた」といふモノが單に發信された情報をのみ傳達する役割しかはたせないのだとしたら、ハナウタなんて涌いては來ないだらう。
供給された「うた」を、たゞ消費させられるダヶといふのは苦痛以外のなにものでもない。音樂は空氣を震はせ鼓膜に音情報をはこぶだらう。しかし、ココロが震はされるのは、ひとの内部ヵラ發生するべつのエナジーによる。
感動といふのは單なる受容ではなく、一種の生産行爲なのだ。