日記。

件のドラマは今夜で最終囘。「鳶(とんび)」といふ唐突なモティフと共に、稍々無理矢理なオチ*1が付いてしまつた。サーヴィスが過剩だなあ‐と感じたが、一般にドラマの最終囘なんてこんなものだつたかもしれない。あ、普段は最後までみるのは稀だから何ともいへないけれど。それよりもドラマにおいて問題となるなのは、物語のスジやオチではなくて「綻び」の部分‐逃走の線‐なのだと私はおもつてゐる。これが至るところに引かれてゐると感じる作品に強く魅かれる*2

*1:ちよつと不自然な大團圓 : ロードレースの大會て休日にやるものではないのかしら‐とかおもふのだけれど、休日が書き入れ時のはずの動物園の職員が何故だか揃つて應援に來てゐたりとか(※これはまあカーテンコールを兼ねてゐるのだといふことで納得は出來るが)。それから微妙な感じの「自立」がゴールとして提示されてゐるのだけれど、「テル」にしても「都古ちゃん」にしても、この件で關係に變化が生じるわけではない(※寧ろ變化しないのがこのふたりにとつては正常なのだといふのは「樹の下で自轉車のベルをチリンチリンと鳴らす」囘想の映像や、「『てがみ、書いたから...』→『うん、待つてる』肯定‐受容の意志表示」によつて何度も示されて來てゐる。)。

*2:逃走の線 : 挿話のヴァリエイションを指してゐるのではない。必要なのは物語が變化に富んでゐるかどうかではなくて、讀み解かれるべき餘地がどれだけそこにあるかなのだ。その意味でこのドラマはなかなかおもしろかつた。