encore(…續き)

偖て「東京平野…」についてはイロイロと云はれている模樣だけれど、こゝで「赤羽橋」とかそんな特定の名詞を取り分けてそこに傳達されるべき意味などを見出ださうとしても仕方がないことだと思ふ。つまり事實關係の追認として歌を聽くセンスといふのは些と如何なんだらうかと*1。結局のところ我々の視線はさういふ示し出された固有の地點を通り拔けた先にある各々の風景に向けられている筈で、互ひが置かれた搖るぎない個別の事情には無理解であるが故にこそイメージ生成において高度に共同し得るのではないのか。さうしてみれば、そこに詠み込まれていたのが「芦花橋」だつたり「田中橋」だつたとしても大した問題ではなくなる。喩ば、我々は毎々日々「他人の戀」だの「他人の失戀」だのゝ歌に對峙させられているわけだけれども、それを「他人の…」として受容することは稀なわけで、だからこそちよつと泣けて來ちやつたりもするんぢやないか。ちなみに「赤羽橋」は、零れんばかりに咲く花枝を透かして間近の東京タワーを望むことの出來る櫻の名所として知つておいても好いかもしれないが、それ以上の知識など無いに越したことはない(周邊にはいろんな會社があつたりもするけど、そんなことはどうでも宜しい)。

*1:フィクション -とりわけ歌のなかのコトバ(word/詞)なんかを字面の儘に現實の或る地點と結び付けるやり方で理解しようとするのはナンセンスなことだ。そこに偶々詠み込まれた名前とか物語が新聞記事のやうに「事實のみ」を指し示すものであるとするなら、コトバに負はされた使命とは藝術機械を破壞すること -もしくは停止させること- でしかなくなる。聲に乘せられるか/心のなかに祕かに響くか/切れぎれとなつた斷片がリフレインするのか/…等々 -發現の形態は種々あるわけだけれど- 如何なる場合においても、歌の裝置のなかで未だコトバが機能を喪はずイメージを生成することが可能となるのは、コトバが用意された儘の紋切型の物語を傳達する役を降りたときだけだ。從てそれは「共通認識」なんてものに堕することのない状況の現出においてといふことになる。また、歌が何らかのものを指し示すことがあるとするならば、それはただ各々の主體に依てそれが「歌はれる」刹那においてのみ正體を顯すものだらう。政治的に「解釋」を伴つて聽取し利用される歌などは、もはや歌としての機能を棄てた御念佛に過ぎない(※勿論、逆に如何に他愛なさの極地にあつてさへも歌であることを止めぬコトバといふのも有り得る。然しそれは詰まり自らを一方的消費の立場には置かず、この機械の運轉者としてイメージ生産の勞役に從事する者に依て見出だされるものだらう)。