戰後の岩波文庫。
昨晩降つた雪はまだ殘つてゐて、ポタポタと樋ヵラ滴を埀らしたり、ときをりドサッと瓦を滑つて落ちたりしてゐる。
いま讀んでゐる、岩波の「古典の讀みかた*1」は7人の識者*2によつて書かれてゐるのだけれども、一册の本のなかで、それぞれにかなづかひが違つてゐたりして、あゝ、原稿どほりに活字を組んだのだなといふかんじで、かなづかひに關しては筆者の意思のマヽであるといふ點で、私はコレでよいのではないかとおもふ。漢字がすべて正字になつてゐるのは、略字で書かれたものは正字になほしたのだとおもはれる。
手書きの場合に、煩雑な文字を省略して書くのは道理であらうとおもふ。舊い本に書き込まれた鉛筆や萬年筆の書き文字なんかをみればわかるとほりだ。しかしそれは、正確な意味をあらはした、くづさない文字を念頭において書いてゐるはずだ。いま、かうして機械を使つて文字を入力するときには鍵盤のボタンを押す譯だが、意味と文章のあひだの運動そのものは實は便宜的な行動にすぎない。文章を讀んでゐるときに、この文章はボタンをどのやうに押したか?などゝいふコトは問ほたりはしない。うまく言へぬが、手書きによる略記法は速記のための便宜であつて、活字をそちらに合はせるといふのは、ちよつとをかしいのではないかとおもふ。
表現の現場においては、先走つた意思のマヽに荒つぽく書きなぐつたりしてもかまはないとおもふ。しかし、出版物は正字使用であるコトを私は望む。かなづかひはある意味、表音記号としての側面もあるので、筆者の意圖に合はせて編輯すればよいのではないか。
戰後すぐの紙の生産がまにあはなかつた時代*3の本は讀んでゐるうちにバラけていつてしまふので讀むのがたいへん!まんなかまで讀んだのだけれど、一囘バラバラにして縫ひなほさなきや。