「久遠の絆ファンサイト はてな」9/27付より。

http://d.hatena.ne.jp/kuonkizuna/20050927/p1


「■」の、上から5つ目「馬鹿も休み休み言ひ給へ(大和但馬屋日記)」http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20050920/gojira
…に關聯して『仮名遣ひと新旧字など... 』についての話題で、


『特に私達戦後で海外の人、歴史的假名遣ひを触る機会は滅多にないんです』と、仰つてゐた。


私が以前に無名小站のサイト「だれもしらないから... 」に書いた印象は、わりと當つてゐるのかも...
と、おもつた。それは、次のコトです。


『使用繁體字的地域のひとたちが用日語寫文章的時、漢字に不使用繁體字的亊を私は不可思議だと感到…(中略)…那樣に不使用繁體字なのは、日語課本が現代日語的省略文字を使用的原因だからかな... 』
http://www.wretch.cc/blog/eulear&article_id=1926990
「まぜこぜの文章。」より。


『日本の外の國で日本語を學習するときには、60年前に書きかたが變へられてしまつた後の日本語を學習するのだといふこと... 』
http://www.wretch.cc/blog/eulear&article_id=1958416
「筆談はムリですか?」より。


現状では、日本の國内でも「歴史的仮名遣」は、義務教育ですこし學習するだけなので、今から大約半世紀以後の本しか讀まないのであれば、讀み書きの方法を忘れてしまつてもなんとかなつてしまふといふのはあります。そして「正字(繁體字)」はたしか、學習すべき文字の範囲外だつたはずです。進學試驗には出題されないためか使ひたがらない人が多いみたいです。
歴史的仮名遣」は、實際には簡單で合理的な法則にもとづいてゐるので、口語體の文章にも躊躇なく使つたはうがよいと想ふのです。で、私はさうしてゐます。
文語で書かれた古典の文章は、ふだんからこのやうな文字/假名づかひをしてゐる私にとつても難讀的なのは變りありません。しかしそれは現代語と古語の違ひが主たる原因であつて、文字/假名づかひのもんだいばかりではないのではないかと想ひます(試しに「正字正かな」で書かれた「現代語譯」の古典があると、この意味はわかりやすいのだが... )。