くだをまいてみた。

で、「言ふ」と「云ふ」だつて、「いふ」といふときにはそれなりに違ひがわかつたりして、スッと訣けてゐたのだとおもふ。學校で習ふ「いふ」は、たしか「言う」だけだつたと記憶する。いろいろと感じるコトはあるのに「言う」しかないんぢや不便でならない。
それァ「言う」は「いふ」てコトに違ひはないけどね。ソレだけ使つてゐりやイイんだ、て云ふから怒つてゐるんだよ。
私たちは、すでに「言ふ」と「云ふ」の違ひさへワカラない「あほう」にされてしまつたちふヮケだ。ついお爺さんかそのまたお爺さんの書いた小説でさへ讀むコトもむづかしいのは困つたコトだよ。
ド忘れだとか走り書きで漢字をちやんとあてないのは日常のことばなのだからイイんです。あてるべき漢字を奪はれてしまつたコトがもんだいなんであつて、戰後の國語への御節介な政策のおかげで日本語の文化が妙な斷絶をしてしまつたコトは、取り返しがつかない。「讀み書きのできないひと」は減つたのかもしれないけれど、どちらかといふと減少したのは義務教育の徹底が功を奏した結果なんぢやないか。
「書けなければ讀めるわけがない。だから、書きやすい文字が正しい」といふのは、まちがつた認識だ。書けなくても讀むコトはできます。讀むコトが昂じれば書けるやうにもなります。間違ひなく書くよりも、書くべき内容がこころのなかでふくらんでこなければ「書く」といふ行爲はなんら意味のないものとなつてしまふのだ。ことばのひろがり(※漢字の多樣さといふのは即いろいろな意味の襞をもつた語の多樣さをも意味する)について「同義だから削つて減らす」とか「音がおなじだから兼用して減らす」なんてやつてゐるのは本當にばかなはなしだ。かういふものこそ「ローカルルール」でてんでにやつてをればイイことで、「『混亂』するから御上が統一してやるのだ」なんちふ發想は、それこそ餘計な御世話なのだ。
アタシャ斷絶後の世代だから、まうスラスラと日本語をつかふコトができない。たとへば、フトなにかを痛切にかんじるコトがあつたとしてもそれをことばに託すすべがよくわからない。勉強不足?はは... ばか云つちやいけませんぜ。義務教育はちやんと修了してますよ。狙つたとほりの成果がでゝゐるはずぢやないの?私のごとき衝動的な人間は、まづことばが不自由である可能性があるのかもしれないね(自己分析XDDDDDDD)。