また、ドラマの感想の續き。

「ケツ男(※某ドラマの略稱)」で、地味だけれど好印象だつたシーンとして一點、桑野氏が"家庭ゴミ"を集積所に置きに行くときのキチンとした所作を擧げたい。普段は一見すると常軌を逸した"薀蓄野郎"のやうにみえてしまふ彼の役處は、しかし實際にはゴミの分別も出來ない巷の"常識人"よりも餘程"常識的な"社會通念を持つてゐるひとのそれである。別の謂ひかたをするなら"過剰な常識感覺"を持つが故に、逆に周圍から"浮いて"しまつてゐるのだといふことでもある。
ところで、些細な價値觀の違ひを許容出來ないことから結婚の相手を見出せないでゐる男性のことを「ケツ男症候群」として括らうといふ風潮があるやうだが、どうもこのドラマの登場人物たちに對しては、さうした"狹量さ(intolerance)"といふ捉へかたをしたのでは本質を見誤つてしまふのではないかといふ氣がしてならない。彼らは互ひの價値觀(から導き出された結果)の違ひに幻滅してゐるわけではなくて、單に思考經路のズレが理解出來ないことから小頸を傾げてゐるだけなのではないか。本人たちは互ひに魅かれ合つてゐることをなかなか認めようとはしないけれども、それは"狹量"または"純潔"であることなど"異質性を排除"することが美徳であると刷込まれてしまつた(それこそ技術至上主義であり人間排斥といふべき)現代人の病なのであらう。けれども彼等は對峙する相手への"恕(※思ひ遣り)"の線を意識しないまゝに最後までそれを抛擲することなく、かつ"個"としての信念も枉げることがなかつた點にこゝでは着目するべきである。結末に到つても、折り合ひを付けて互ひの異質性を均等化して薄める方向ではなくて、それぞれの個性のまゝに役割を分擔し得ることを認め合つたから、一緒に歩き始めることが出來たのではないかとおもふ。