國際語とはなにか。

「…話すことも出來ないのに讀めるわけがない」といふのは、單なるおもひ込みなのではないかとおもふ。たとへば、私にとつての中國語は、いまだ「紙上の言語*1」であつて、「話すこと」は充分ではない。しかし讀むことは可能だし、寛容な讀み手に對してならば不完全ながらも書くことさへ出來る。
英語が「國際語」だといふのは、充分に正確な表現をなすことができるか、さもなくば極めて限定された語彙のなかで單純な意思の疎通をはかる場合においてでしかない。つまり傳達の言語、社會性の言語としての側面しか支援してゐないことを意味する。これは(日本語などの)地域的な言語からの非領域化をはかる、まだ最初の段階だ。絶対的な意味を指示し、文化的な領域を囘復する段階においては「國際語」といふ名の外國語に褚るわけにはいかない。これをローカルなレヴェルで運用してしまふことが、おそらく多くの外國語教育の失敗してゐる點なのだらう。必要なのは「ネイティブスピーカー」の如く話すことではなくて、自らを取り巻くあらゆる領域を解體し再領域化してゆくための技術なのだとおもふ。
ところで、日本語が社會性の言語としてのレヴェルにおいて他の地域の言語から非領域化をはかるための「國際語」として流通してゐる實體を、當のネイティブ話者である日本人が意識してゐる例はすくないのではないだらうか。ネイティブ話者の日本人が「話す身振りをすることができてゐる」から日本語を「充分に讀めてゐる」のかといふと、それもまた疑問だ。

*1:紙上の言語 : 正確にいふならば「網上の言語」かもしれない。